1865年
フランス、ベルギー、イタリア、スイスがお金の同盟を結んだ
フランスの皇帝、ベルギーの王、スイスの女神。片面に刻まれた顔も言葉も国名もばらばらな硬貨が、国境を越えて等価で通いました。約束は、ただ一つでした。
3分でわかる ラテン通貨同盟
横に送って見られます
1865年
フランス、ベルギー、イタリア、スイスがお金の同盟を結んだ
揃えたのは硬貨の決まりだけ。共通の中央銀行はなかった
5フラン銀貨は同じ重さと純度。顔はどの国のものでもよかった
25グラム
純銀にして22.5グラム
この決まりは条約の外へ。南米、北欧、バルカンにも広がった
1866年〜
教皇領は、銀を減らした銀貨を大量に鋳て隣の国へ流した
1870年に同盟を追われた
1870年代
銀の値が暴落した。決まった比率では、銀が高く見積もられた
15.5対一
金と銀の値打ちの比
1873年
銀を持ち込んで硬貨にし、金と換えればもうかった
1億5400万フラン
この1年でフランスの造幣所に持ち込まれた銀
1878年
同盟は、銀貨を自由に鋳ることを止めた
鋳た銀貨は額面のまま通した。足を引きずる姿と呼ばれた
22.5グラム
5フラン銀貨に入る純銀。顔が違っても、この重さは同じ
1億5400万フラン
1873年の1年で、フランスの造幣所に持ち込まれた銀
あなたはスイスの銀行員です。決まりより銀の少ない、教皇領の銀貨が大量に持ち込まれました。顔は違っても、同盟の硬貨です。どうしますか?
選んでみてください
同盟には共通の見張り役がなく、約束を破る国を罰する方法がありませんでした。受け取れば、劣る銀貨がそのまま広がります。
実際に、スイスとフランスの銀行は受け取りを拒みました。教皇領は1870年に同盟を追われます。同盟にできたのは、締め出すことだけでした。
同じ重さという一つの約束で、国境を越えて硬貨が通いました。その約束を守らせる仕組みは、最後まで弱いままでした。

一八六五年、フランスが主導し、ベルギー、イタリア、スイスと共にラテン通貨同盟が結ばれました。この同盟が揃えたのは、共通の中央銀行でも財政の規律でもなく、硬貨の規格だけです。
基準となった五フラン銀貨は、総重量二十五グラム、品位は千分の九百と定められました。純銀にして二十二・五グラムです。金と銀の価値の比率は、十五・五対一。この寸法と重さと品位さえ守れば、片面の肖像はフランスの皇帝でも、ベルギーの王でも、スイスの女神でも構いませんでした。国名も言葉もばらばらの硬貨が、国境を越えて等価で通ったのは、この寸法の一致があったからです。
同盟に正式に加盟したのは、最初の四か国と、その後千八百六十八年に加わったギリシャだけでした。けれど、この規格そのものは、条約の署名を越えて大きく広がっていきます。
ペルーは同盟より早い千八百六十三年から、同じ寸法の銀貨を採っていました。コロンビアとベネズエラ、北欧のフィンランド、バルカンのセルビアやブルガリアも続きます。スペインのペセタやルーマニアのレウも、加盟はせずに規格だけを写しました。条約に縛られなくても、重さと品位さえ合わせれば、どの国もフラン圏に片足を入れることができたのです。
しかし、この緩さは弱さでもありました。共通の監督機関がないため、約束を破る国を罰する術がありません。その穴を内側から突いたのが教皇領です。
千八百六十六年から、教皇庁の財布を握る枢機卿アントネッリは、規定より貴金属を減らした銀貨を大量に鋳ました。その量は、ベルギーの一年の鋳造高に並んだとされます。劣る銀貨は隣国へ押しつけられましたが、スイスとフランスの銀行が受け取りを拒み、教皇領は千八百七十年に追われました。財政難のたびに硬貨の金を削ったギリシャも、千九百八年に追放されます。同盟にできたのは、締め出すことだけでした。
同盟の背骨を揺るがしたのは、千八百七十年代に起きた銀の値の暴落でした。定められた十五・五対一の比価では、銀が高く見積もられすぎます。銀をフランスに持ち込んで硬貨に鋳造し、金と換えれば利益が生まれました。
千八百七十三年の一年だけで、フランスの造幣所に持ち込まれた銀は、一億五千四百万フランにのぼります。同盟は千八百七十四年に銀貨の自由な鋳造を制限し、千八百七十八年には停止しました。しかし、すでに鋳られた銀貨は廃貨にせず、額面のまま通用させます。金属の値は額面を割っているのに、金貨と並んで使える。この足を引きずる姿は跛行本位と呼ばれました。
溶かせば損をする銀貨を抱えたまま、同盟は半世紀を歩きます。あとから、脱退する国には銀貨を金で償わせる条項が継ぎ足されました。離脱を裁けないなら、せめて高くつかせる。そういう同盟だったのです。
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