明治4年
大阪の川のほとりに、お金を作る煉瓦の工場ができた
日本で最初の西洋式のガス灯もともった
直径三十八・六ミリの銀貨に刻まれた竜は、英国でも高く評価されました。しかし、この銀貨が生まれた時代、国内では士族の禄が公債に変わり、内戦の費用は紙幣で支払われました。
3分でわかる 竜の銀貨と紙の戦費
横に送って見られます
明治4年
大阪の川のほとりに、お金を作る煉瓦の工場ができた
日本で最初の西洋式のガス灯もともった
明治のはじめ
竜を刻んだ一圓銀貨。外国との取引のために出された
台湾・朝鮮・中国でも使われた
廃藩置県のあと
国の帳簿でいちばん重いのは、武士に払う給料だった
歳入の3割七分を占めた
明治9年8月5日
給料をやめ、何年分かを国の借金の証書で1度に渡した
その後
利子だけでは暮らせず、多くの武士が証書を売った
9割
明治15年の鳥取県で、すでに手放していた士族
明治10年2月
西南戦争が始まった。税の9割近くを戦争が飲みこんだ
その戦費
財源は増税ではなく紙。お札を刷り増し、物価が跳ねた
26.96グラム
竜の一圓銀貨の重さ(銀90パーセント)
4156万円あまり
西南戦争の軍費(資料によってかなり違う)
あなたは明治の士族です。給料の代わりに国の借金の証書をもらいました。利子は、町の働き手のいちばん低い日当の3分の1にしかなりません。どうしますか?
選んでみてください
利子だけでは暮らせませんでした。証書を受け取っても、毎日の暮らしは成り立たなかったのです。
多くの士族がそうしました。明治15年の鳥取県では、士族の9割がすでに手放していたといいます。
武士の給料は、こうして銀行のもとでになっていきました。

大阪、淀川のほとりの川崎村に、煉瓦の工場が建ちました。造幣寮です。明治四年二月に銀貨を作りはじめ、四月四日に創業の式を挙げました。
機械は、閉じられた香港の造幣局から買い取ったものです。首長に招かれたイギリス人、トーマス・ウィリアム・キンダーの月俸は千四十五円。太政大臣三条実美の八百円を上回りました。この年、構内にともったガス灯は、日本で最初の西洋式のガス灯でした。
働く者は髷を落とし、洋服を着ることを義務づけられます。ここは、文明開化の実験場だったのです。竜の図を鋼に彫ったのは、金工師の加納夏雄だと伝わります。この竜図は英国側でも高く評価されました。
新しい時代の陰で、古い制度が消えていきました。廃藩置県のあと、政府の帳簿でいちばん重かったのは、華族と士族に払う禄でした。歳出の三割を超え、歳入の三割七分を占めます。
明治九年八月五日、金禄公債証書発行条例が出されます。禄の五年から十四年分を公債で一度に渡し、三十年のうちに償うというものでした。
しかし、その利子だけでは暮らせません。七分利の公債から入る一日の利子は、東京の労働者のいちばん低い賃金の三分の一にしかなりませんでした。だから公債は売られます。明治十五年の鳥取県では、士族の九割がすでに手放していたといいます。武士の禄が、銀行の資本に姿を変えたのです。
明治十年二月、西南戦争が始まります。
政府軍は五万八千五百五十八人、船は十九隻。軍費は四千百五十六万円あまりと、圭室諦成は算えました。資料によってこの数字はかなり違うと、そこにも断ってあります。同じ頃の政府の税収が四千八百万円ほど。その九割近くを、半年あまりの内戦が飲み込みました。
財源は増税ではなく、紙でした。政府紙幣と国立銀行紙幣が刷り増され、物価が跳ね上がります。そして、その紙を政府に貸したのが、旧い大名たち、華族の出資で作られた第十五国立銀行でした。紙で戦費を払うと決めたのは、政府のほうです。
この竜を刻んだ一圓銀貨は、対外貿易用として発行されました。品位は銀九十パーセント、量目二十六・九六グラムです。台湾・朝鮮・中国でも流通しました。
明治四年五月十日の新貨条例は一円を純金一グラム半と定めましたが、開港場では銀貨が実際に使われつづけ、金貨と銀貨の二本立てで回っていきます。黄金だけを土台にした金本位の制度に立つのは、明治三十年のことです。
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