1475年
イングランドの王が、フランスに軍を連れて上陸した
フランスからイングランドの王へ、年金が支払われました。老後の備えとは異なる、国境を越えた約束。同じ言葉が、金融の作法としても、歴史の中に現れます。
3分でわかる 年金という言葉
横に送って見られます
1475年
イングランドの王が、フランスに軍を連れて上陸した
1475年
フランスの王は戦わず、お金を払う約束で退かせた
すぐ払うお金と、毎年の年金
そのころ
王はスイスにもお金を出し、強い敵とぶつけた
敵の公は1477年1月5日に斃れた
のちの時代
商人や職人とともに、年金でお金を回す作法が北へ
1585年 → 1622年
受け皿のアムステルダムは、人が大きくふくらんだ
今
今の年金は、老いや障害のあとに決まった額を受け取る仕組み
どの年金も
額面だけでは分からない。物価で割って見ると重さが分かる
5万エキュ
フランス王がイングランド王に払うと約束した年金
10万5000人
1622年の調査でのアムステルダムの人口(およそ)
あなたに年金の通知が届きました。去年と同じ額が書いてあります。暮らしの重さも、去年と同じでしょうか?
選んでみてください
通知に書かれた額は、名目の額です。それだけでは、暮らしの重さは分かりません。
そのとおりです。物価で割った実質で見ると、同じ額でも買える物の量が分かります。
王への年金も、今の年金も、将来にわたって決まったお金を払うという約束です。

フランスの王ルイ十一世は、上陸してきたイングランド王エドワード四世を、金で退かせました。千四百七十五年のことです。ピキニー条約で交わされた約束は、即金七万五千エキュと、年金五万エキュでした。
王の戦い方は、撃つより金で潰すというもの。強大なブルゴーニュ公、剛胆公シャルルとの争いでも、王は自ら決戦しませんでした。スイスへ補助金を出し、剛胆公にぶつけます。公は千四百七十七年一月五日、ナンシーでスイス軍に斃れました。王は金で編んだ軍と買収で、敵を打ち破ったのです。王が敵に払った年金は、その戦略の一部でした。
歴史の中には、もう一つの年金のかたちが見えます。金融の仕組みとしての年金です。
南の街々から北の諸州へ、商人が、職人が、そして資本が移った時代がありました。人の頭と帳簿に納まって、アントウェルペンの世紀を支えた道具立ての一式が、北へ運ばれていきました。その中には、手形や簿記と並んで「年金金融の作法」が含まれていたのです。
受け皿となったアムステルダムは、千五百八十五年ごろに約三万人だった人口が、千六百二十二年の調査ではおよそ十万五千人にまで膨らんでいます。移民がもたらした資本と技術は、この街の跳躍を支えた要因の一つでした。
現代の私たちが知る年金は、老いや障害のあと、決まった額を定期的に受け取る仕組みを指します。国が運営する公的なものと、自分や勤め先が積む私的なものがあります。
王が敵国に払う約束。金融取引の作法。そして、生活を支える制度。同じ「年金」という言葉が、時代や文脈によって異なる意味合いで使われてきました。
どの年金にも共通するのは、将来にわたる定期的な支払いという点です。しかし、その価値は額面だけでは分かりません。通知に書かれた額は名目の額です。物価で割った実質で見ないと、暮らしの重さは分かりません。
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