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銭を捨てた国へ、商人が運んだ貨幣

乾元大宝を最後に朝廷は銭を鋳るのをやめました。絹と米で支払いをしていたこの島へ、十二世紀、博多の商人が宋の銭を運びこみます。国家の意思ではなく、損得勘定が貨幣のかたちを変えていきました。

3分でわかる 商人が運んだ宋の銭

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  2. あなたならどうする?
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横に送って見られます

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乾元大宝のあと

朝廷は、銭を作るのをやめた

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平安の中ごろ〜

値をはかり、支払うのは、絹と布と米になった

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11世紀

税を払わずにすむ土地が増え、富は土地にたまった

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11世紀の終わり〜

博多の港に、宋の船が見慣れない銭を降ろしはじめた

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12世紀の半ば

宋の船主たちは博多に住みつき、町をつくった

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そのころ

奥州の砂金は都へ、そして宋へ。代わりに銅の銭が来た

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治承3年

銭が京を覆った。人々はこれを「銭の病」と呼んだ

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その後

国でなく商人の損得が、この国のお金を作り変えた

2あなたならどうする?

あなたは平安の京に住んでいます。国が作ったのではない、海の向こうの銭が出回りはじめました。どうしますか?

選んでみてください

国の銭ではないから、使わない

朝廷も、はじめは禁じようとしました。けれど今度の銭は、国が作るものではありません。禁じても、商人の船は銭を運び続けました。

便利だから、使ってみる

実際に、運ばれてきた銭は京を覆いました。平氏の富も、宋との貿易の利に支えられていました。

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2026-10-08 葉山 満 コインをじっくり見る
日本 銭を捨てた国/諸国の倉と奥州

銭のない国の物差し

延喜式の禄物価法は、米や布や鉄といった品々の公の値を定めていました。国家自身が、銭ではない物差しを用意していたのです。平安の中ごろから、価値をはかり支払いに使われたのは、絹と布と米でした。土地の売券は、絹何疋、米何石という形で書かれます。

富は土地に沈んでいきました。十一世紀には寄進地系の荘園が広がり、税を免れる特権を持つ所領が増えます。千六十九年、後三条天皇は記録荘園券契所を置きますが、この流れは止まりませんでした。

博多の浜に着いた船

十一世紀の終わり、博多の湊に、見慣れない銭が降ろされはじめます。宋の銭です。

十二世紀の半ばになると、博多の浜には宋の船が着き、綱首と呼ばれる宋人の船主たちがそのまま住みつきました。彼らの居留区は唐房と呼ばれます。船倉から降ろされたのは、陶磁器の箱と、緡に通した銅銭の山でした。海の向こうで鋳られ、海を越えて来た皇宋通宝です。博多の遺跡を掘れば、その銭と焼き物のかけらが、今も土から現れます。

商人が動かした富

銭をこの島へ連れ戻したのは、朝廷ではありません。海の商人でした。国家の詔ではなく博多に集まった商人の損得勘定が、この国の貨幣を作り変えていったのです。

そのころ奥州では、藤原清衡が陸奥を掌握していました。財源は砂金と馬です。その砂金は都へ上り、やがて宋へ渡りました。そして代わりに運ばれてきたのは、この国が鋳るのをやめた銅銭でした。銭を運んだのは国ではなく、綱首の謝国明のような男たちです。

都を覆った「銭の病」

十二世紀の後半には、運ばれてきた銭が京を覆いました。百錬抄は、治承三年の記事にこう書いています。天下の上下が病み悩む。これを銭の病と呼ぶ、と。

朝廷は、はじめこれを禁じようとしました。けれど今度の銭は、国が鋳るものではありません。平氏の富を支える三本の柱の一つには、日宋貿易の利がありました。

乾元大宝を知らない世代が、生まれてはじめて手にした銭は、外の国の銭でした。

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