1716年
金貨を預けると、預り証として銀行券が渡された
この銀行券は、券に記された重量の貨幣と交換するという約束を核としていました。しかし株の値を支えるために刷り増され、やがて信用は崩れます。崩れた後の査定は、五百リーヴル以下の請求を減らしませんでした。
3分でわかる 約束を超えて刷られた紙
横に送って見られます
1716年
金貨を預けると、預り証として銀行券が渡された
2年後
銀行は国の後ろ盾を得た。券で税も払えるようになった
1717年
ジョン・ローは、ルイジアナとの商いの会社を作った
そのしかけ
国の借金の証書で、会社の株を買えるようにした
1719年
株の値は駆け上がった
500 → 5350リーヴル
額面 → 9月の値。頂点はおよそ1万
1720年
株の値を支えるため、券がどんどん刷り増された
1720年5月21日
国が、券と株の値を下げる命令を出し、信用が崩れた
そのあと
人々は金貨を求めて、銀行に押し寄せた
5350リーヴル
1719年9月の株の値。額面は500リーヴル
22億3510万リーヴル
1720年5月末の銀行券の残高
1720年5月。国が「券と株の値を、月ごとに下げる」と発表しました。あなたの手には、この銀行券があります。どうしますか?
選んでみてください
国みずから紙の値打ちが下がると認めたのと同じでした。信用は崩れ、券を持つ人は苦しい立場になりました。
実際に、人々は金貨を求めて銀行に殺到し、押し合いで倒れる人も出ました。
崩れた後の査定は、五百リーヴル以下の請求を減らしませんでした。

スコットランド出身のジョン・ローが、摂政オルレアン公のもとで銀行券を発行しました。彼は確率に通じた賭博師で、ロンドンでは決闘で人を刺し、死刑を宣されて大陸へ逃れた過去を持ちます。貨幣は増やせば経済を刺激する、と彼は説きました。
千七百十六年、バンク・ジェネラルが設けられます。金貨を預けると、その預り証として銀行券が渡されました。二年後、この銀行は国の後ろ盾を得た王立銀行となり、バンク・ロワイヤルと呼ばれます。券は税の納付にも使えるようになり、ロー個人の信用は、国の信用へとつながりました。
ローの仕掛けは銀行だけではありません。千七百十七年、彼はミシシッピ川流域ルイジアナの独占を狙う西方会社を興します。この仕組みの心臓は、紙くず同然の国債で会社の株を買える、という債務の株式化でした。国の借金を株に変え、それを銀行券で支える、一つの大きな回路です。
会社はタバコの専売、造幣、徴税までも呑み込み、植民地の商いと国の財布を丸ごと握ります。ですが、富の土台は植民地ではなく、王への貸しと税でした。千七百十八年の暮れまでに海へ出た船は、十二隻にすぎません。湿地の多いルイジアナという実体との差は、開くばかりでした。
株の売り買いは、パリのカンカンポワ街で行われました。千七百十九年、この細い路地は熱狂の中心になります。額面五百リーヴルの株は、九月には五千三百五十と駆けあがり、頂点はおよそ一万リーヴルに達しました。
ミリオネール、百万長者という言葉も、十八世紀のフランス語です。千八百四十一年のマッケイの本は、主人に頼まれて株を売りに行き、値上がりの差額を懐に入れて国を出た召使いと、自分の馬車を持てるほど稼いでローのもとを辞した御者を、別々の逸話として伝えます。どちらにも典拠は示されていません。その富は、紙で数える富でした。
では、何が約束を逆回りさせたのか。ローは会社の株の値を高い水準で支えようとし、そのために券が刷り増されていきました。千七百二十年五月末の券の残高は、二十二億三千五百十万リーヴル。経済史家ヴェルデは、株をこの高さで支えたことが、歯止めのない貨幣の増発につながったと分析しています。
その年の五月二十一日、国は券と株の値を月ごとに下げる令を出します。国みずから紙の減価を認めたにひとしく、信用は崩れました。人々は金貨を求めて銀行に殺到し、押し合いで倒れた者も出ます。十二月の初め、ローはフランスに財産を残して国外へ去りました。
けれど後の査定は、単純な物語を退けます。五百リーヴル以下の請求は減らされず、それは人数の半分、金額の四割でした。
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