1716年
戦でお金が尽きたフランスで、ローの銀行ができた
銀行券は税を払うのにも使えた
決闘で人を刺し、死刑を宣された賭博師が、フランスの財政を握りました。紙幣は増やせば経済を刺激する。その考えは国を熱狂させ、やがて長い後遺症を残します。
3分でわかる ジョン・ローの泡
横に送って見られます
1716年
戦でお金が尽きたフランスで、ローの銀行ができた
銀行券は税を払うのにも使えた
1717年〜
ローは会社を興し、国の借金を会社の株に変えた
株を銀行券で支える仕組み
1718年の暮れまで
でも海へ出た船は少なく、富の元は王への貸しと税だった
12隻
1719年
パリの細い路地で、株の値が駆けあがった
500 → 5350リーヴル
額面500の株が9月には。頂点はおよそ1万リーヴル
1720年5月末
株の値を支えるため、お札が刷り増された
22億3510万リーヴル
銀行券の残高
1720年5月21日
国が「券と株の値を月ごとに下げる」と決めた
国みずから紙の値下がりを認めた形
その後
信用が崩れ、人々は金貨を求めて銀行へ押しかけた
押し合いで倒れた人も出た
1720年12月の初め
ローは国の外へ去った
1726年
お金は金属へ帰った。紙のお金は長く嫌われた
金属のお金の安定は、革命までおよそ60から70年続いた
20倍
額面500リーヴルの株が、頂点のおよそ1万リーヴルへ
22億3510万リーヴル
1720年5月末の銀行券の残高
1720年のパリ。あなたは銀行券をたくさん持っています。国が「券と株の値を月ごとに下げる」と発表しました。どうしますか?
選んでみてください
実際に、人々は金貨を求めて銀行に殺到しました。押し合いで倒れた人も出ています。国が紙の値下がりを認めたことで、信用が一気に崩れたのです。
国そのものが「月ごとに値を下げる」と決めていました。持ち続けた紙の値打ちは下がっていく仕組みです。ローは12月の初めに国の外へ去りました。
1726年、フランスのお金は金属へ帰ります。紙で金貨を置き換える試みは、長く悪評のなかにありました。

パリのカンカンポワ街は、もとは割引の国債を商う細い路地の露天市でした。千七百十九年、ここが熱狂の中心になります。額面五百リーヴルの株が、七月に千、八月に三千六百、九月には五千三百五十リーヴルへと駆けあがりました。頂点は、およそ一万リーヴル。二十倍です。
ミリオネール、百万長者という言葉も、十八世紀のフランス語です。千八百四十一年のマッケイの本は、主人に頼まれて株を売りに行き、値上がりの差額を懐に入れて国を出た召使いと、自分の馬車を持てるほど稼いでローのもとを辞した御者を、別々の逸話として伝えます。どちらにも典拠は示されていません。けれど、そこにあった富は確かに紙で数える富でした。
仕掛け人はスコットランド生まれのジョン・ローでした。確率に通じた腕ききの賭博師で、ロンドンでは決闘で人を刺し、死刑を宣されて大陸へ逃れた過去を持ちます。彼は、紙幣は金属より優れており、増やせば経済を刺激すると説きました。
戦費で財政が潰れたフランスで、摂政オルレアン公はローに賭けます。千七百十六年、バンク・ジェネラルが設けられ、二年後には国の後ろ盾を得た王立銀行となりました。銀行券は税の納付にも使えます。ローはさらに千七百十七年、ミシシッピ川流域の独占を狙う西方会社を興します。この仕組みの心臓は、紙くず同然の国債で会社の株を買える、債務の株式化にありました。国の借金を株に変え、それを銀行券で支える。会社はタバコの専売から徴税までを呑み込み、植民地の商いと国の財布を丸ごと握ったのです。
会社の富の土台は、植民地ではありませんでした。千七百十八年の暮れまでに海へ出た船は、十二隻です。富の源泉は、王への貸しと税でした。湿地の多いルイジアナという実体と、紙の上の富との差は、開くばかりです。
では、なぜ崩れたのか。ローは会社の株の値を高い水準で支えようとし、そのために銀行券が刷り増されていきました。千七百二十年五月末の銀行券の残高は、二十二億三千五百十万リーヴルに達しています。経済史家ヴェルデは、株をこの高さで支えたことが、歯止めのない貨幣の増発につながったと分析しています。
千七百二十年五月二十一日、国は券と株の値を月ごとに下げていく令を出します。国みずから紙の減価を認めたにひとしく、信用は崩れました。人々は金貨を求めて銀行に殺到し、押し合いで倒れた者も出ます。同年一月には財務総監に就いていたローは、十二月の初めに国外へ去りました。
ローの泡がはじけたあと、フランスには長い後遺症が残ります。紙で正貨を置き換える試みは長く悪評のなかにありました。千七百二十六年、通貨は金属へ帰ります。ルイドールとエキュの重さが固く定められ、その安定は革命まで、およそ六十から七十年続きました。